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ー第3章ー 1.Hymne á l'amour

Autor: 土浦タカ
last update Data de publicação: 2026-09-08 14:04:31

イレヱヌはたまらなく緊張していた。こんなに緊張したのは人生で初めてかもしれない。バレエの発表会でも“シラノ・ド・ベルジュラック”を演じた時にもこれ程は緊張しなかった。イレヱヌが緊張している訳は、セシルが今日人前でシャンソンを歌うからだ。

事の始まりはラ・クロズリー・デ・リラだ。

ピカソ、モディリアーニ、ヘミングウェイら著名人も愛したこの店は彼らの名前が刻まれた真鍮のプレートが席に飾られ、ピアノバーとしても利用されている。

その日イレヱヌ達は牛肉のタルタル、牛フィレ肉のヘミングウェイ風、そしてデザアトにクレエプ・シュゼットを注文した。店内にはピアノがジャズを奏でて心地良い空間を演出していた。

イレヱヌはただこの心地良い空間に身を任せていただけだったが、セシルは何を思い立ったのかピアニストの元へと向かった。(何か曲をリクエストしたのかな?)イレヱヌは暢気にそう考えていたがセシルは此方に顔を輝かせながら戻ってきた。

「イレヱヌ、やったよ」一体何があったのか不思議に思い「どうしたの」と問うと「僕、明日此処で歌う!」と興奮しながら伝えてきた。イレヱヌは口をぽかんと空ける。自分は一体何を言われたのかさっぱり理解できなかった。

セシルは別の卓子テエブル席で一人の女性と会話をしていた。髪は短く、特徴的な鷲鼻をしていて、目尻の下がった大きな目は何処と無く寂しげだった。フランソワーズ・サガンに間違いなかった。(サガンと友達なのは本当だったんだ)イレヱヌはそう思うものの、驚きはなかった。今はそれどころではない。

何故かイレヱヌの方が緊張してきた。一体どうしたというのだろう。手の平は汗でびっしょりとしてしまい、震えが止まらない。喉が酷く渇いた。今日セシルが歌うのは事もあろうにエディット・ピアフの“愛の讃歌”だ。前年にニューヨークの舞台で倒れ、心身ともにピアフは限界に達していたものの、名曲“ミロオル”の発表により名声が高まった。彼女は今でも仏蘭西人の中では最高のシャンソン歌手という呼び声高い。おまけに此の店はピアフやピアフのパトロン達も利用している事で有名だ。若しも聴衆にとって納得出来るもので無かった場合はどの様な反応がされてしまうのだろう。イレヱヌは怖くてたまらなかった。周りの和やかな談笑の声もカトラリイが奏でる軽やかな音も遠くに感じる。自分の鼓動が身体の中で煩く鳴り響いた。

対するセシルはピアノの側に向かい、とても落ち着いているように見える。セシルは珍しく黒のシンプルなドレスだけを身に纏っている。恐らくエディット・ピアフに敬意を表したものだろう。静寂が煙幕のごとく床を這い空間を包んだ。ピアノが音を奏でる。

“Le ciel bleu sur nous peut s’effondrer

たとえ青空が落ちてきたとしても

Et la terre peut bien s’écrouler

大地が崩れ落ちたとしても”

セシルは最初目を閉ざして胸に手を置き囁くように歌い出す。聴衆一人ひとりに語りかけるかのようだ。

“Peu m’importe si tu m’aimes

私は気にしない あなたが私を愛してくれるなら

Je me fous du monde entier

世の中のことなんてどうでもいいの

Tant qu’ l’amour inondra mes matins

愛が毎朝を満たしてくれる限り”

恍惚うっとりとした眼差しで一人ひとりの目を見詰めながら歌い続ける。イレヱヌは胸がどきどきと高鳴るのを感じる。しかし、其れは緊張とはまた違った種類のものだ。

“Tant que mon corps frémira sous tes mains

あなたの手の下で 私の体が震える限り

Peu m’importe les problèmes

悩みことなど どうだっていい

Mon amour puisque tu m’aimes

愛する人よ、あなたが私を愛してくれるなら”

腕を聴衆に向けて優雅に差し出す。

“J’irais jusqu’au bout du monde

世界の果てまで行くわ

Je me ferais teindre en blonde

髪を金色に染めるわ

Si tu me le demandais

もし あなたがそう望むなら”

優しさと愛と悲しみに溢れた歌声でセシルは歌い続ける。席を立つものはいなかった。皆セシルに意識が集中していた。セシルの歌声がイレヱヌの胸に深く突き刺さった。

“J’irais décrocher la lune

お月様を盗みに行くわ

J’irais voler la fortune

宝物も盗みに行くわ

Si tu me le demandais”

あなたがそう望むなら

悪戯っぽい微笑わらいを浮かべて身振り手振りを交えながら語りかける様にセシルは歌った。イレヱヌの大好きなセシルの微笑わらい方だ。

”Je renierais ma patrie

祖国も捨てるわ

Je renierais mes amis

友人だって捨てるわ

Si tu me le demandais

あなたがそう望むなら”

周りをぐるりと見渡しながら指を指していき、全てを振り払うかのように腕を広げた。

“On peut bien rire de moi

人は私を笑うでしょうけれど

Je ferais n’importe quoi

私はなんでもするわ

Si tu me le demandais

あなたが 私にそう望むなら”

“Si un jour la vie t’arrache à moi

いつか 人生が私からあなたを奪っても

Si tu meurs, que tu sois loin de moi

あなたが死んでしまっても、あなたが遠くへ行ってしまっても”

セシルは何かを引き留めるかのように両腕を差し出す仕草をした。

セシルはいつの間にシャンソンの練習をしたのだろう、とイレヱヌは驚嘆する。即興で歌えるとは思えない。シャンソンは歌詞とリズムを知っていたら歌えるという簡単なものではない。愛、悲しみ、情熱など人生における普遍的なものを魂に語りかけるように歌えなければそれはシャンソンとは言えない。

Peu m’importe si tu m’aimes

あなたが私を愛してくれるなら 私は大丈夫

Car moi je mourrai aussi

だって 私も死ぬのだから

Nous aurons pour nous l’éternité

私たちは 二人のために 永遠を手に入れる”

セシルは腕で自分を抱き締めた

“Dans le bleu de toute l’immensité

広い青空で

Dans le ciel plus de problèmes

悩み事のない空で”

遠くを見て手の平を上にして遠くに伸ばす

まるでセシルの身体が浮き上がっているように見えた。

“Mon amour crois-tu qu’on s’aime

愛する人よ、私たちは愛し合っているわね

Dieu réunit ceux qui s’aiment

神様は 愛し合う二人を結びつけてくれるわ”

胸の前で手を組み、恍惚うっとりと目を輝かせながら微笑みを浮かべて頬に添える。

わぁっと弾けるような拍手と歓声が静寂を破る。店内は拍手喝采だった。口笛を吹いて讃えるパリジャン、セシルに投げ接吻キスを送るパリジェンヌ。此の空間は正にイレヱヌの愛する巴里其の物だった。ふと、自分の睫毛が濡れているのを感じ、自分の眼から涙が零れ落ちているのに気が付く。イレヱヌは自分の魂が震えているのを感じた。遅れてイレヱヌも拍手を贈る。勝手に緊張しあれこれ心配してしまった自分を心から恥じた。

音楽とは土地に根付いて愛されると不思議な力が宿る魔法となる。そしてセシルはその魔法を使える人だった。亜米利加人であるセシルが仏蘭西人の魂とも言えるシャンソンを仏蘭西語で歌って人の心を掴んだ。此れを出来る人が世界に何人いるというのだろう?

セシルはオーナー、ピアニストに話し掛けられている。

(セシルはやっぱり特別な人なんだ)イレヱヌはセシルの事が堪らなく誇らしかった。(きっと何か夢を掴んだり大きな事を成し遂げる人ってセシルみたいな人なのね)

此の店は確か大切な会談を行いたい政界、財界の大物やファッションウィーク期間中のデザイナー、モデル達が一息付くために利用することも多い。確か今は秋冬の既製服プレタポルテの巴里コレクションが開催されている。VOGUEやParis Match、L’ART ET LA MODEで見たことの有る人物が何人か居る。上手く行けば今日夢を叶える上で必要なコネクションも手に入れられる可能性がある。セシルは其れを見越して今日このパフォーマンスを行ったのかもしれない、という考えに至った。セシルの様に強くて行動力もあり、そして才能と自信があるきっと其の様な人が自分の欲しいものを手に入れるのだろう。イレヱヌがセシルの方を微笑んで見ていると、サガンと見知らぬ一人の男性がイレヱヌに近づいてきた。

「Bonsoir 貴女、イレヱヌね……?」サガンが遠慮がちにイレヱヌに話し掛けてきた。やや吃り気味な内気さを感じさせる声だ。「Oui」僅かに頷きながら肯定する。まさか話し掛けられるとは思わなかった。何故か堪らなく緊張してきた。サガンはそんなイレヱヌの様子にくすっと軽く笑い

「そんなに緊張しないで。私はお友達の恋人に挨拶がしたかっただけなの……。後、私の友達がどうしても貴女に話したかったんだって」サガンがそう言うと隣の男性がイレヱヌに一歩近付いた。

「Bonsoir mademoiselle 突然なのですがファッションモデルをすることに興味は有りませんか?」

ぽかんと口を開けてしまう。一体何を言われたのか理解わからなかった。

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  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第4章ー 2.フランソワーズ・サガン

    イレヱヌはこの件を誰にも言うつもりは無かった。たとえエドワアドであろうとジャンヌであろうと。ましてやセシルには。あんなことがあったなどと口にすることすら屈辱的だ。そして口にしようとするだけでまた全身を蛆が這うようなおぞましい不快感を思い出してしまいそうだからだ。 「お前、モデルしてるんだってな」明くる日、サン=ポウルのビュッフェでシリルにそう声をかけられる。「うん」言葉少なにイレヱヌは返答した。なるべく考えたくは無い。この日はセシルが仏蘭西で仕事をしていた。 「大丈夫なのかよ」「大丈夫って何が」「ファッション業界がえげつない実態なことくらいは俺でも知ってるぞ」シリルの方を見ると、真剣な顔でイレヱヌの事を見詰めている。この表情で見詰められるのは“シラノ・ド・ベルジュラック”の舞台終わり以来かもしれない。 「大丈夫よ」そう言ってイレヱヌは微笑《わら》いかけた。「何かあったら絶対に誰かに言えよ。一人で抱え込むなよ」「分かってる。ありがとう」其処までシリルに心配されていたとは思わなかった。シリルが此れ程心配しているなら、両親やセシルにはもっとかもしれない。イレヱヌは周りからどう思われているのか心配になってしまった。それともシリルはまさか何かに勘づいているのだろうか、その考えが頭を過り、総毛立つ。シリルが若し勘づいてしまったとしたら、セシルに気付かれてしまうのも時間の問題だと思った。あんなこと恋人には世界一気付かれたくはない。 次の日、セシルがイレヱヌの部屋にやってきた。「久しぶりだね。イレヱヌ」気のせいか表情が堅い気がする。「久しぶりセシル。お仕事はどうだった?」イレヱヌはわざと明るい声を出した。(セシルに心配をさせないように振る舞おう)自分に言い聞かせ、紅茶を淹れようとする。 「イレヱヌ、“シェ・レジーヌ”の事どうして僕に言ってくれなかったの?」首筋から氷の塊を滑り落とされたような錯覚に陥る。「何の事……」「彼処はフランソワーズやフランソワーズの友達が良く利用してるんだよ」頭が真っ白になる。そういえば“パリ・マッチ”には頻繁にサガンとブリジット・バルドーがディスコやカジノで夜遊びする姿が載っていた。「僕は、そんなに頼りない存在なの?」はっとしてセシルの方を見ると、悲しそうな眼をしていた。ふう、と息を吐き出すと「どうしても知られたくなかったの…

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    そうこうして数日過ごしている内にパリ・プラニングから連絡が来る。早速仕事の話だった。自分は事務所に所属しているだけの素人だったのでこんなに直ぐに仕事が来るのかと驚いた。休日を使って仏蘭西に行くことが決まった。兎に角セシルから離れたい。セシルの事など考えたくも無かった。 巴里に来たのは一ヶ月も経っていない筈だが、何故か遠い昔の事に感じた。イレヱヌはマドレエヌ寺院近くのトロンシェ通りにあるパリ・プラニングのオフィスにいた。予想通りスカウトマン、社長二人ともジャンヌ、エドワアドの事を知っていた。初めての仕事は新規のブランドのイメエジ広告の撮影だった。 「まあ!写真で見るより美しいわ!若い頃のジャンヌよりも綺麗かもしれない……」案の定、ブランドのデザイナア、シルヴィ・ペロウはジャンヌの事を知っていた。赤い風車時代に衣装デザイナアをしており、其処から交遊を深めた仲らしい。「何時かイレヱヌとも仕事をしたいってジャンヌと良く話してたわ」衣装合わせをしながらシルヴィは楽しそうに話した。イレヱヌは何も言わずに微笑んだ。(あたしの人生は結局ずっと此れが続くのだろう)イレヱヌは諦観してそう思う。(でも、此れはどうすることもできないことだし。そもそもあたしの親が普通の人だったら此の仕事は貰えなかっただろうし)顔にメイクを施されながら誰に言うでもなく言い聞かせる。そして撮影が始まった。 イレヱヌの顔は普段よりさらに真っ白になっていた。まるで巴里の日曜日の蚤の市で眼にする陶器人形のような顔だ。鏡を覗き込んで思わず笑ってしまう。衣装はフープスカアトとコルセットの部分が敢えて剥き出しになったドレスだった。正面はミニドレスに見えるが後ろは裾が床を引きずる長さに作られている。足元は薄手のストッキングにガーターベルトを履いた。頭は高く盛り上げた髪型を模した鬘を被った。鬘には船の模型や駝鳥の羽根、薔薇等が付けられているため、鬘の中は空洞とはいえそれなりに重い。十八世紀の極端な華美さと、十九世紀の退廃的な雰囲気からインスピレエションを得たもののようだが、今の時代の感覚ではファッションというより身につける芸術といったものだった。撮影現場には|蚤の市《ブロカント》で見つけたと思われる巨大な全身鏡や

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